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自己紹介 ~ろばになるよ!~

はじめに ~ご挨拶~

はじめまして ろばさんといいます。

今までたくさんの失敗を繰り返してきた底辺のアラフィフです。

私の人生の最終目標は ”幸せになりたい” です。

自分が幸せになるために周りの人が幸せであること は大前提にあると思います。

このブログを読みに来てくださる皆さんが

 ”今日より明日、今より一瞬先、少しだけ幸せになれる

そんなブログを更新していきたいと思っています。

この先の 私の半生 は恥ずかしながら自分語りの長文です。
 興味のない方は飛ばしてください。

私の半生 ~失敗の記録~

出生~学生時代

私はいわゆる団塊ジュニア世代に産まれました。とにかく人が多く、地元の中学では1クラス45名×11クラスという今では考えられない程の生徒数でした。人数の多さのメリットとして先生の目が行き届かないことが多く”自由奔放”な学生生活が送れたこと。デメリットは言わずもがな軌道修正してもらえずにドロップアウトしてしまうものが多いこと。比率でいえば今と変わらないのでしょうが、母数が違えば・・・ですよね。

それでも 中学~高校~大学 と何とか道を外れずに進学。大学2年次にようやく自分の置かれている環境に気づきます。このまま4年間勉強しても待っているのはそこそこの中小企業。時代はちょうどバブル崩壊の真っ只中でした。当時のゆるい頭の私は ならば海外になら選択肢はふえるじゃないか! と、それから狂ったようにバイトをする。おかげさまで大学には5年間お世話になる結果に。まさしく本末転倒でした。

無事に大学卒業後、当時のお金で200万程の貯金を使って1年間の渡米を決行。就職には目もくれずギリギリまでバイトと渡航先を調べることに夢中でした。この時サラリーマンへの道を選択していればそれなりに平凡な生活をしていたのかもしれません。

飲食店店長~経営

留学中、沢山の方と知り合い、現地での就職先が決まりかけた矢先の出来事。
父が私の大学入学後程なくして始めた副業のカラオケ屋の店長が逃げ出し、お店がピンチとの連絡。
帰国を余儀なくされ、父との話し合いもほどほどに、なし崩し的にカラオケ屋の店長に。何もわからないまま、学生時代に経験したバイトの知識を元にお店を切り盛りし、嵐のように時間は過ぎていきました。カラオケ屋の併設で喫茶店も営んでおり、朝5時の仕込みから深夜2時のカラオケ屋閉店まで1年365日無休の生活を約2年。お金を預けられるバイト君が育ってようやく週一のお休みがとれるようになり始めたころ、時代の流れが変わる出来事に直面します。
当時のカラオケ屋さんは今の方には馴染みのないレーザーディスクの機器が主体でした。
それが今の主流である通信機器の登場で激変していきます。それこそビジネスの仕組みから構築しなおしとなる出来事でした。貸室料は当初の1/3 となり、償却前の機材もお客様のニーズに合わなくなってくる。そこで新たな施策として デモ機の導入で延命させながら別業態へのチャレンジとしてフランチャイズの焼肉屋さんへ加盟してオープンさせることとなりました。私が27歳の時でした。

オープン当初の焼肉屋さんは好調で、初期投下資金の回収も順調。しかしながらカラオケ屋さんのほうは少しずつ通信機器にコンバートは進んでいるものの、貸室料の相場が下降する一方。何とか凌いでいる状態でした。そんな時に焼肉屋さんの方で大きなトラブル発生。狂牛病の発生による風評被害でした。売り上げ激減。今まで経験したことのない開店休業状態が続き、近隣の競合店も撤退の情報が入り始めます。できる販促を打ちつつ、後はなすすべのないまま時が過ぎるのを待つ状態。その間に室料相場が1/30まで低下したカラオケ屋さんを安定していた併設の喫茶店と合併させ、インターネットと漫画喫茶へ移行させました。

父の本業への参画~廃業

私の父は私が幼稚園の年中さんの頃に独立して、地場産業である繊維製品の製造を手掛ける会社を興しました。私が小学校の高学年になるころには、自工場の増設、移転を2度行い、営業5名、工場勤務10名 パート勤務15名 年商5億程の会社に成長しておりました。幼少期は裕福だった記憶はなく、父ともあまり一緒にいた記憶はありません。ただ、夏休みやお正月などのまとまったお休みの時にはいろんな所へ連れて行ってもらっていた記憶が鮮明に残っています。

私が30歳になった年、外食産業をそれまで育てたバイト君の中から正社員に登用し任せて父の本業を手伝ってほしいとの打診がありました。それまで別経営だった会社を併合させ、グループ傘下として資金繰りを統合させるのが狙いだったようです。しかしながら、父の会社には父の実兄の息子さんつまり私の従兄が長らく勤務しており、父の会社も従兄が継ぐものと認識していた為、何もトラブルがなければ良いがと思ったものです。

私の仕事のウェイトも父の本業8割、外食2割程度になった頃、またしても焼肉屋さんでトラブル。今度は飲酒運転の取り締まり厳罰化です。もちろん当然の事ではあるのですが、この時の売り上げ減はロードサイド店には致命的で、今度は永続的に影響があるトラブルでした。

当初の予定であった資金繰りも一方がお荷物化する事でバランスが崩れ、運転資金の不安から新たな借り入れを銀行から受ける際の事、従兄が、私も連帯保証人にならなければ自分は抜けると抗議。仕方なしに連帯保証人になってしまい、これ以降の人生が大きく狂い始めます。
後でわかったことですが、この時、同時に従兄の連帯保証は外されており、残っているのは父の実家の土地(父の実兄は既に他界しており、実際には従兄の所有財産)の一部が根抵当になっている状態でした。

そんな折、焼肉屋さんのフランチャイズ本部が他社への身売りを公表。低迷を抜けられないうちの店舗も権利毎ほかの企業さんに買ってもらい、結果損切となりました。またほぼ同時期に漫画喫茶の方も思ったような収益が出ないまま閉店。こちらもカラオケ屋さんの頃からの負債を残したままの損切でした。そして、このタイミングで従兄が会社の主たる人材を引き連れて独立、開業を企てます。私が35歳の年、時代はリーマンショックによるパニック状態の中での出来事です。

その後、4年間、何とか立て直そうと尽力するものの、営業力、技術力の核を根こそぎ抜かれた会社からお客さんが離れていくのは食い止められず、付帯経費に圧迫される形でやむなく廃業。私が社長に就任して約1年後の決断でした。

借金苦~サラリーマン~独立

廃業後、残った負債は約3億。会社の土地、社屋、前述の根抵当権などの処分で1.2億程の残債。
それでも個人が返済できるレベルではありません。弁護士さんに相談してもお金がないところに更に追い打ちをかける ”自己破産” や ”個人再生” の話。良い悪いは別にして、あるコンサルタントに時効の援用の話を持ち掛けられ、そのまま塩漬けすることに。何も解決しないまま、陰鬱とした日々が今も続いています。

それでも自分の食い扶持は何とかしなくては。

その当時、異業種交流で知り合っていた健康食品のOEM製造会社の社長さんに声をかけていただき、人生初のサラリーマンを経験。今まで如何に自分が自由に仕事をしてきたかを痛感する。
ようやく会社にも慣れ、当初の約束であったISO認証取得も実現させた頃、父の癌が判明。余命宣告もあと半年ほどとの事。父は廃業後、自分の独立の起点となった仕事を個人で再開させていました。
病床の父の言葉、この規模なら二人分くらいの給料は十分でる。昔ながらの外注さんも手伝ってくれる。引き継いでやってみないか?さながら後の面倒を頼むの遺言のようでした。しかしながら、現在の繊維業界は先細りの一途。専従者の高齢化も進み、新たな参入も皆無。ジリ貧なのは火を見るより明らか。そこでの決断は困難を極めましたが、サラリーマンとしての自分の資質も疑問であったし、拾っていただいた社長への恩義も返せた所。キリもよかったのかも。私も41歳になっていました。

ブログをはじめる理由 ~幸せになりたい~

沢山の経験と失敗を繰り返して、私が今願うこと。

“ 幸せになりたい ”

では、幸せとは何なのか?どうしたら幸せになれるのか?
私は思う
父の最後の言葉を・・・

 ” いろいろあったけど、幸せな人生だった

最後にこう言える人生が幸せなのだと
見送る時にこう言ってもらえた人が幸せなのだと

父の葬儀の弔辞でこのエピソードを語った後から、私の頭の片隅には常にこの考えがあります

そしてその実現には

  • こころを惑わす執着にとらわれないこと
  • 小さな気づきを増やし感謝すること
  • 関われた周りの人を幸せにすること

が大切だと気付きました。

だから、このブログを 読みに来てくださった方の幸せに少しでも役立てたら と思っています。


このブログを読むと ~皆さんの幸せのために~

幸せになるためには 必要なものが 3つ あります。

・ 執着を捨てること

・ 物事に感謝すること

・ 利他のこころを持つこと

これら 3つ の実践をしやすくするため

こころを豊かにする暮らし方  

身体の健康を維持するための方法  

笑顔になれる身近な気づき

を軸に皆さんにお届けしていきます。

皆さんがこのブログの記事を読んだ後、少しだけ幸せを感じられる

そんなブログになれるように。

  

おまけ ブログ タイトル ~ろばになるよ!~ 意味

我が家には大学生の一人娘がいます。
彼女がまだ幼稚園に通っていた頃、ディズニーの「ピノキオ」を見て大変ショックを受けていました。

娘  「ねえ、パパ、どうして ピノキオやお友達は ろば になっちゃたの?」

私 「自分のしたい事ばかりしてたから ろば になっちゃたんだよ。」

娘 「自分のしたい事なのにしちゃいけないの?そんなのやだ!」

私 「でも、ちゃんとやらなきゃいけない事もやってたら ろば にならないんだよ」

とっさに答えた内容でしたが、娘には強く印象に残っていたようで、小学生になる頃には

「宿題やりなさいよ」や「お片付けしなさいよ」のかわりに

「 ろばになるよ! 」

が我が家の合言葉のようになっていました。

そんな娘も成長した今、この合言葉は

・怠惰な自分を感じた時
・踏み出す一歩を躊躇した時
・継続させたい習慣が身につかなくなりそうな時

に自分に対して使う言葉となりました。

幸せになるには努力が必要です。
「幸せになりたい」と思い続ける事が必要です。
だから私は 自分に言い続けます

「 ろばになるよ!」と。